中尾佐助の進化観

半栽培についてちゃんと読みたいと思っていたので、図書館から『栽培植物の世界』(1976)を借りてきたぼーっと読んでいるのだが、以下の一文におおっとなった。

イントラ・ポピュレーショナルな変異をもつ集団では、多数の変異系統の間に生活力の差が当然考えられ、その結果、時代の子孫を残す比率に差が生じ、弱いものは消失していくはずである。それにもかかわらず多数の変異が集団内に保持されるのには、二つの場合がある。その第一は、いろいろの変異の間に、見掛け上は生活力に差があるようでも、実質的には同一数の子孫を残す場合である。つまり形は異なっていても、繁殖力に差がない形質で区別される変異の場合である。穀類では、粒の色や、小穂の一部に生ずる短毛の存否などがこうした形態であろう。第二は繁殖力に差がある変異が、別の要因によってその差が保証される場合であろう。

第二の場合のアナロジーとして、自然性体系の熱帯降雨林をとってみよう。樹種の少ない北方の森林に対し、熱帯降雨林は最上層、第二層を作る樹種だけでも、驚くばかり多数の樹木のスピーシスからできている。そのスピーシス間には当然生活力の差がある。それが単一樹種にならない原因の説明が必要になる。種子生産量の差、その散布力の差、発芽条件の差、幼苗時代の森林内での耐陰力の差、生長力の差など、数え切れないほど多くの関門で篩にかけられ、その通過が偶然に影響されることが大きい。要因が非常に多数重なると、結局は偶然だけが有効に作用したような結果になってしまい、生活力の差は消却されたようになるのだという説明ができる。(以下略)

p41-42より。
この後の高度の複合社会云々は首をかしげたのは内緒だが、発表年代におぉとなる人も少なくないだろう。
1976年といえばドーキンスの『利己的な遺伝子』の発表された年である。とっくにジョージ・ウィリアムスの議論や木村基生の中立進化説が出揃っていたとはいえ、非常にすっきりと進化と生態系をつなぐ議論を畑の中の栽培植物で書いていたことに感銘を受けた。

この文章中には、よく鍛えられたフィールドワーカーの眼差しがある。

栽培植物の世界 (自然選書)

栽培植物の世界 (自然選書)