神の雫にみるグルメ漫画の行方(1)

 グルメ漫画のテンプレートに”主人公サイドが出した料理(メッセージ)でゲストサイドの問題を解決”というのがあります。
 神の雫はこのテンプレートを用いているのですが、これまでにないヴァリエーションを生み出しました。これまでのグルメ漫画は、基本的に生産者・調理人サイド側から話を進めてきたのに対して、登場人物(レギュラー、ゲストキャラ問わず)の問題が、ワインの由来とは無関係に飲み手の関係性や記憶とワインの味の傾向とリンクすることで完了する、完全に消費者中心主義の論理を前面に打ち出しているのです。
 そのために初恋だの母親だの郷愁だのというよくわからない味のイメージが登場人物の間で共有されていることが、読者に提示されます。これまでもミスター味っこ*1のように、行き過ぎた味の表現はいくらでもありましたが、味の説得力を出すために持ち出す論理はあくまで、どのような過程でつくられた食材・どのように調理した料理に依存していました。神の雫の場合、登場人物(つまり読者)の人生経験の味わいのみが味の説得力の源泉として利用されるという極めて自己中心的な構造になっています。
 通常のグルメ漫画で食べ手のことを考えた料理が出される場合、食品の来歴や食べて自身の来歴が語られた上で実食するので、実際には不味そうでも二つの来歴を重ねることで読者はそれなりに納得できました。「この登場人物にはおいしいだろうね」と補完することによって。しかしある種の味や香りは、個々人の体験の差異によらず共通したイメージとして甘受できるはずであるという論理によって、神の雫は飲んだワインが何であるかというよりも、飲んだ人間が何者であるかを語るのです。しかも飲んだ時になって初めて。
 結局味覚は個人的な問題なのですが、万人に共通する体験を表現する味覚の体験が、結局個人の経験に還元されるという矛盾する構図。
 味から想起される体験は無数にあってしかるべきだし、それこそがワインの多様性ではないでしょうか。

 19巻で累計350万部もあるというのはそれなりに説得力がある語り口なのでしょうが、グローバリゼーションの進行、ファーストフードの普及などによる生産者と消費者の分断を強く肯定する姿勢ともいえ、強く疑問を感じます。

<続く>