水村美苗ファザコン説

そして、究極的には、今、日本語で何が書かれているかなどはどうでもよい、少なくとも日本文学が「文学」という名に値したころの日本語さえもっと読まれていたらと、絶望と諦念が錯綜するなかで、ため息まじりに思っている人たちに向けて書かれているのである。

http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20090206#1233957230

まだ立ち読みすらしていない水村本なのだが、小田亮氏の引用している箇所を読んで、大蟻食さまこと佐藤亜紀氏が書いていた以下の文を思い起こさずにはいられなかった。

水村美苗ファザコンである、日本近代文学水村美苗にとって理想の父なのだ、「お父様、美苗はお父様のいない世界になんか生きていたくありません」って、いったいあんた幾つだよ――と書こうとしていたら、田舎から連絡が来て、父が急逝していた。享年73歳であった。

http://tamanoir.air-nifty.com/jours/2008/11/20081122.html

引用されている箇所を読む限りは、懐古趣味でファザコンで現代の小説から目を背けている輩を説教をしようとしているのか、共感しつつあるべき姿の日本文学を復元しようとしているのか分からないのだが。

それにしても小田亮氏はキッツいなぁ。

これに対して、どうして「幼稚な光景」というのか説明がないとか、「今、日本語で何が書かれているかが大事なのだ」と反発しても仕方がないでしょう。ここは、この本が誰に向けて書かれているのかを述べているところなのだから、この本は自分に向けて書かれていないのだと思って本を閉じるのが正解でしょう。お金を払って買った本であれば、自分向けじゃなかったんだとがっかりするのはわかりますが、仕事やレポートのために読まなくちゃならない人以外は、自分が間違って買ったのだと諦めるしかないところです。消費社会は「成熟」すると「幼稚」になるものですが、売っているすべてのモノが「自分向け」であるべきだと思っている消費者がなんで自分向けに書いていないのだというクレイムをつけているのに近いように思います。

 その意味では、この本がウェブ上で話題となるきっかけを作ったとされる梅田望夫さんがこの本をお勧めしたエントリー(書評でもレヴューでもなく、推薦ですが)のタイトルが「水村美苗日本語が亡びるとき』は、すべての日本人がいま読むべき本だと思う。」となっているのは、推薦した本の内容自体を裏切っているものでした。すべての日本人がこの本を読んで感動するくらいなら、この本は書かれなかったでしょうし、「すべての日本人」に勧めてベストセラーになった結果、自分向けでないと書いてあるのに、それを非難する人たちが多く出てきてしまったわけですから。