帝国論とネイション

山下範久の現代帝国論を読み出したのだが難解。
ネグリ&ハートの<帝国>論を要約した一章につまずいて先に進めない。
一番引っかかったのは、ネーションの訳語に国民ネーション民族ネーション両方当てているらしいこと。ルビをふればいいてもんじゃネーゾ。脚注ぐらい付けてくれよ。編集何やッてんの。この問題は、ネーションという語のもつ多義性に由来するのだということで決着するのだが*1

次に引っかかったのは、超越性という言葉の無自覚な使用である。大澤真幸がDK問題の解決のために、第三者の審級という形で引いてくるのならまだわかるのだが、実証的な研究を引くことなく、前近代において(無反省に?)超越性が前提とされていたなどとやられるとトンデモじゃないのかと疑ってしまう。
ニホンザルのように「心の理論」を用いなくても社会的秩序は成立するという、社会的なるものの現実からスタートした方が、超越性を前提にできない現代の分析に繋がるのではないのか?むしろ人間は超越性を不当前提にしても社会秩序を構築できるんじゃないのか?などと無茶な感想をボンヤリと浮かべた。

二章以降についてもコメント予定。

民族とネイション―ナショナリズムという難問 (岩波新書)

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<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

*1:仕方ないので塩川信明の入門本を横に置きながら読むことにした。