今西批判は柳田理科雄と同じ轍を踏んでいる、奴もいる

「生物の社会」を呼んでこんなの科学じゃない、今西錦司はスピリチュアルだ、というのはよっぽど頭が悪い人であると思わざるえない。例えば今西は生物社会の論理の前書きに、

あの遺書のつもりで書いた”生物の世界”の内容を、もう少し科学書らしく書き改めてみる、ということも、生きている以上は、是非ともしておかなければならない仕事の一つのように思われた

『生物社会の論理』今西錦司

などと書き、当人ですら科学書じゃないと思っている本である。なのでトンデモとかいう奴とか擬似科学とか言う奴は狂牛病患者なのだろう。「生物の社会」を読んで今西を非科学的とするのは端ッから無理なのである。その点上山春平はちゃっちゃとこれは西田幾多郎由来の哲学とラベリングしてその範囲で議論してた。エライ*1

このような今西批判は柳田理科男のやり方とよく似ている。柳田は空想科学読本において、「創作のファンタジックな設定を、ある科学理論が背景にあると自分で適当に仮定しておいて、それだと矛盾する」と批判するという芸を見せた。これは世間的には非常に受けて、もう何冊も出ている俗受けするやり方だ。

哲学書or思想書を勝手に自然科学を装っていると仮定して、間違っているというやり口。まぁ、『生物の世界』に限らず『私の進化論』なんかも講演の書き起こしだし、どう言葉を定義しているのかわからない本が多く、科学書として批判可能なものは極端に少ない今西を擬似科学呼ばわりするのは、フェアではないのは確か。

なお、私は今西のダーウィンに対する批判は歴史的経緯を考えると情状酌量の余地があるけど、基本的に的外れが多いので見ないふりをしてあげるのがいいかと思っている。今西が追求したのは、社会学的記述によって如何に進化が可能かというところであって、本人の集団遺伝学音痴もあるし、ダーウィンと違う層の研究をしていたというのが事実。いわゆる今西派の生物学者たちも、多くはそんな漢字だと思う。

もし今西が擬似科学だというのなら、今西理論にもっとも忠実な研究である、伊谷純一郎の「霊長類の社会構造と進化」が非科学的かを議論しないといけないだろう。

*1:のか?