ニセ科学批判のむなしさ

私はニセ科学批判関係の記事を見るたびにむなしさを感じる。なぜならニセ科学批判は、教科書に書かれたことを教義のごとく振り回すことによって正当性を主張しているからだ。つまり批判者達は、科学的な営みとして詐欺商品や非科学的な物語を適切に検証しているわけではなく、「私が学校で教えられたことと矛盾する。だからこれは嘘でありニセ科学だ」としか言えていない。もちろん菊地誠氏がライアル・ワトソンらの原著から参考文献を検討する営みは確かに科学的な営みだ*1。しかしその尻馬に乗る多くのニセ科学批判者たちの行動は、異端者の火炙りに対する熱狂と大して違いがない。科学という営みとしてニセ科学批判は存在していない。

「そんなことは問題ではない。現実に明らかな嘘や詐欺であるニセ科学を批判する営みが何故むなしいのか。嘘や詐欺が出回れば本来推進されるべき科学的研究への投資や信用が失われ、それこそが問題ではないか、」と批判者達は思うだろう。

もちろんそれは大いに問題だろう。しかし科学に対する適切な評価という目的のために、科学と相容れない手段を利用するというのは科学そのもの地盤を掘り崩すことにはならないのだろうか。正しいと信じる目的のために手段を間違える、そんな間違いは歴史上いくらでもある。ニセ科学批判は正にその轍を踏んでいるように思える。現実的には詐欺師の見分け方と被害者の救済が必要なだけなのに、なぜか科学の正当性の守護という観点から批判が行われている。普通の詐欺と同じように扱えば良いだけで、何故わざわざ”エセ科学”と特権的に識別する必要があるのだろうか。

我々は普段誰かor何かをリスクあるなしにかかわらず直観的に信頼する*2ことによって、リスク計算の煩わしさを乗り越えて生活している。またどんな科学者であっても、自分の専門以外のことに対して科学的な営みを完遂することは難しい。そもそも通常の社会生活において、科学的検証が可能な局面自体少ない。どんな情報であれ参考文献・検証方法・論理構成ともに曖昧なまま情報は提供される。たとえ自然科学的に反証可能な仮説であっても、多くの会話場面においてその正当性が妥当な形で提供されることは稀である。結局情報の受け手は何らかの仕方で会話内容を信頼する以外にない。

以上のように原理的に日常において、ある話を科学的なコミュニケーション*3によって検討することは不可能である。にもかかわらず、ニセ科学批判者達は非科学的な行為である教科書に対する盲信の拡張によって、詐欺師からの離脱が吐かれると思っているようだ。ニセ科学と呼ばれる詐欺やファンタジーが教科書で確認できることとはずらして作られているにもかかわらず。





などと書いていたら、ニセ科学批判で当然のように言われている「ニセ科学は、絶対という言葉を多用する」というステレオタイプな見解の問題点に気付いた。科学的な証明が背景にあっても、それに基づいた商品のセールスは絶対という言葉を多用するケースは少なくないし、モロ資料捏造のニセ科学商品であってもセールスの際に必ずしも絶対という言葉を使う必要なく、「体質に依ります」とか「当社比何パーセントの効果が期待できます」などともっともらしく言いつくろうことはあろう。そして宗教であっても、神を絶対と奉っても神が日常の苦しみ全てを絶対に救ってくれるとは言わないんだな。




げにコミュニケーションは難しい。南無





なお、当論考において焦点はあくまでコミュニケーションや行為に置かれており、宗教や科学の原理の違いは問題にしていません。

*1:ただし、引用の非正当性を明らかにしただけであり、文献学的(=人文科学的)であって自然科学的証明ではないと思う。実験手法が不明なものを再試しろと言う気もないけど

*2:もしくは信頼しない(不信)という選択肢をとる

*3:懐疑的思考と言ってもよい