違う気が

でもそういうことは、実際には起こり得ないと僕は思っている。なぜか。それは「ネット右翼」と呼ばれる人々の行動をつぶさに見ているとよく分かる。

彼らが食いつくのは、自分の身近な出来事や現実と比べても、明らかに筋違いと思えるような前提を置いて書かれた記事や意見に対してである。自分が直接知らないことについて飛びついて来たりはしないし、身近な経験があることに対しても書き手がそう述べる根拠や経験(いわゆるソース)を開示した場合には割とあっさり引き下がる。

つまり、誰もが決定的な事実を知っているわけではない状況において、平等に意見を言えるという前提のあるネット上での議論にはものすごく熱心だが、「意見を裏付ける決定的な事実」や「論争の相手が誰が見ても社会的弱者であることの証明」などが示されると、とたんに「あまり一般化するなよ」とか何とか捨て台詞を残して消え失せたりするのである(笑)。

いまいち納得出来ないのは、ネット右翼を十把一絡げにしてリベラルな存在としているからか?
もちろんそういう人もそれなりにいるわけだが、ただその「それなり」というのは私が見るとことだと、アルファブロガーと呼ばれている人の一部であり、多くはその尻馬に乗っている者だ。ちなみにアルファブロガーの多くはネット右翼ではない。
例えばネット右翼の言説に溢れている多くの在日・韓国批判は、とてもではないが身近な問題であるようには思えない。その人の生活が垣間見えるようなブログの場合、嫌韓という言説に乗ることは少ない。これは普通に生活をしているときに、嫌韓的になる事態がそもそも稀少だからだろう。
しかも実のところ彼らが根拠にする情報の出所は、彼ら自身の存在によって生まれた需要に基づきマスコミが提供するようになった言説であり、マスコミが持つ偏りではなく、マスコミ内部の矛盾によって投げ返された彼ら自信の欲求そのものなのだ。言い換えれば循環的な関係によって理解されるべき物で、原因を求めても仕方がない。

結局の所切り込み隊長限定擁護のエントリだとは思うのだが。というか彼をネット右翼視するのってどうよ。当人は気にもしてないようだがそもそも、小倉氏は取巻きをネット右翼視していたような。