続オニババ

結婚観に見る捻れ

次に三砂氏の女性観について議論を進めたいと思う。
彼女は身体性に根ざした話を進めるために、(極端な言い方をすると)子宮至上主義的な論理を貫こうとし過ぎているのではないだろうか。

例えば「女として生きろ」というオプションがないという項では、非常に割り切って何の躊躇もなく女性性を、全て出産とそれに付随する性生活であると強調し*1、それのない人生は無意味であるかのように論じている。というよりも、現在の女性があたかも結婚という道を封じられているかのような、捻れた前提をすることで、まるで結婚という方法論が新しく表れたオプションであるかのような奇妙な論理が展開されているのである。

さらに三砂氏の言う結婚=家庭に入って専業主婦をすることであり、非常に高度経済成長期の幻想に浸かっているとしか思えない。それをオプションという表現をすることで微妙な表現にしているけれども、その後のページに見られる出産後十年は育児に専念という記述は明らかに専業主婦でないと育児が出来ないという思想の表明である。林道義と同じ穴の狢としか言いようがない。

疲れたので明日に続く

*1:主従がおかしいような気がするが、この本ではそのように書かれている。逆ではない