オニババ1

オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す (光文社新書)をやっと読み終わったので感想を書く。長いので何日かに分けることになりそう
女性はもっと身体について知るべきだ、まではよいがそこから政治がどうこうという話になるに従ってトンデモぶりをさらけ出していくは、議論の前提とそこから結論に進む過程が、著者は科学的な主張だとするが人類学音痴ぶりと歴史認識のなさとフェミニズムについての勘違いと政治的な無思慮だわでロクでもないのでイライラした。
とりあえず感動した人は女性を適宜男性に、男性性は女性を妊娠させるところにあるのですとか、その当たりの論旨に適当に置き換えながら読むとその論理のトホホぶりが明らかになる。
基本構造は作者がどのように意図したにしろ、できあがった本が示しているものは以下のようになる。

  • 早期妊娠&結婚が望ましい。避妊・堕胎は不自然でよろしくない
  • 昔の人は偉かった系懐古主義、自然万歳
  • 相手がいないのならさっさとお見合いをして、高望みなどせずに結婚しろ

ただ身体性についての記述に関しては面白いので、立ち読みする価値はあるかもしれない。しかし散らばっているので探すのはなかなか難しいが。
丁寧に読み進めていく。
まず近代医療に対する敵視から検討するが、レトリックによる過剰な攻撃が見られる。女性の健康(ウイメンズへルス)のことを「医療がどうやって女性のからだをよりよく管理できるか」という発想ではないだろうかとしているが、明らかに不毛な誘導である。医療関係者の努力をまったく考慮していないし、近代医療のもたらした成果と負の成果についての評価としては全くアンバランスだ。原身体性への回帰を謳う以上近代に対する敵視が顕在化するのは仕方ないにしても、存在しない敵を憎むという構図が見えてしまいどうしても共感できない。ここは疑問型ではなく引用にしなくてはならなかっただろう。
そして性教育についての議論につなげていくわけだが、「自分の排卵が分かるように」とか「子宮の動きに留意して」ということがいわれることはありませんとする。これは明らかに論理のすり替えである。このような具体的な身体技法が学校という場で教授されるべきだなどとは三砂氏はこれっぽちも思っていないのにも関わらず、そうではないと非難するという奇妙な論理を提示する。学校というものに対する過剰な期待というものが如何に不毛であるか、友人や親、地域社会がどれだけその役を果たすべきであるという論理は一体誰のものであったのだろうか。そもそも避妊や性病についての知識に集中するのは、親や友人では対処できない知識であるからに他ならない。コーラで避妊できる、中出ししなければ大丈夫といった避妊についての迷信、幼児を犯せばエイズが治るという性病についての流言に対処するためには学校という権威付けが要請されると言うことを全く触れずに、不十分さを根拠に否定をする。個人の身体的経験によらない言説としての仕事をしているはずの研究者の言葉であるのだろうか。
さらにp44にはあるポリネシアの〜という話を引いているのだが、正直言ってこれはどこなんだろうか。非常に興味深い例であり、避妊について結婚について重要な事例であるように思われるので、サモアじゃないことを期待したいのだが、記述にその香りがプンプンしてしょうがない。もしサモアならば次回の版からごっそり記述を削ることを期待したい。


明日に続く