家族観の違い

人質事件で家族を考えるを読んで。
個人、もしくは個人主義という概念からすると本文またはコメント欄の主張もうなずけますが、各国のお国柄というものを考えると日本のように家族が出てきて謝ったり、嘆願したりするのもありかなと思います。
もし個人主義は西洋のものであり、全ての国でそれは普遍的に適用されなければならないと言ったら、大抵の人は無茶だなと思うわけで、成熟していないと言うのは、某掲示板で某隣国は民度が低いというのと何らレベルが変わらない話だと思います。日本には日本的な成熟の仕方というものがあってよいのでは、と。
西欧的なと一括りにしてもいいのですが、各国でいろいろと違いがあるようで、有名所だとイギリス、ドイツ、アメリカでは違うと向こうでも言われているようですね。
私自身は各国の違いを実体験として語ることが出来ないので、例示もしませんが、温暖湿潤な日本にはウェットな方が似合うかなと思います。

もし、人質の家族の発言が違っていたならばこのような事態にはならなかった(これについては疑問あり。日本人の「ムラ感覚」が原因のひとつなのであれば、たとえ家族が理想的に応対をしても人質へのバッシングは起こったろう。

だとすると三人の家族は日本というムラ社会のはみ出しものと言うことになりますが、弁護の声も同じくらいあることを考えると同じムラでも色々あることになりますね。よく日本の右傾化や、現状の左翼的なものへの批判があるけれども今回日本は右も左もその中間段階も各種とりそろっていて、そのどちらも発言する自由が確保されていて、さほどどちらかに偏っているわけでもないことがわかり、私は逆に安心できました。ムラ社会も多様な意見をいえる環境になったということでしょうか。
あるべき姿を思い描くのは私もよくしますが、なかなか一般性をもたすことが出来ず、「時間に任せたらいいか」と私なんかは匙を投げてしまいます。今回の政府対応は一応あるべき姿だったかなと思いつつ、それに対していろんな方面から非難や賛同が出たのは、非常に面白い現象だし、これこそ日本の現状なのだと再認識した。