今西は本当に全体論者なのか?

都井岬のウマを読んだところ、「これまでの動物社会学は全体ばかりを見ていて、個体を注視しなかった。社会の要素たる個体を無視して社会が分かるわけはない。」(うろ覚えにつき不正確)という一文を見つけた。
ニホンザル以前から個体識別を元にした研究の重要性を語ったものとして感慨深い*1。ま、高崎山幸島での調査成功後に執筆・出版された本だからなのかもしれないけど。

生物社会の論理で種個体間の「はたらきあい」が重要であるということを語り、都井岬のウマで個体・個性を認識することの意義を主張する今西。生物学では社会の構成要素は個体であるという風に理解し、その遺伝的な戦略を元に社会を理解するというのが主流だが、今西の社会観はそれとは全く異なる。

今西、そしてその弟子である伊谷は個体の論理と、それとは異なる社会の論理を別のものとして扱うことの重要性をといた。今西とその弟子達は、要素還元主義ではないが、全体論とは言えないのではないか。

きちんと動物個体の世界を通し、その上でそれぞれの相互作用を明らかにしていく。ルーマンと通じるところがあるのかもしれない。

*1:ちなみに、個体に番号を割り振って社会研究を最初にしたのは、アメリカのカーペンター。今では昆虫に番号を振って研究する人もいる。生物社会学というより個体群生態学よりのだけど

斉藤成也の進化観

id:shorebird:20081213#1229135824:title
酔ったままコメントの返事をしてしまったことに大変恐縮しています。ちょっと長くなるので、ここで自然選択と斉藤成也さんの中立進化説について補足します。

突然変異のうち、発生不全や極端に機能不全を表現形に引き起こすのものは自然淘汰によって速やかにgene-poolから取除かれます(負の自然選択)。しかし突然変異の多くは形質に現れないゲノムレベルのものであり、多くは保持されます(利己的DNAというやつですね)。*1

その一方で、表現型に不利ではない性質を発現させる突然変異も生じます。若干記憶が曖昧ですが、そのゲノムレベルでの発生頻度の内訳は中立なもの:適応価が高いもの=99:1ぐらいだと言われています。しかし自然淘汰の作用(正の自然選択)によって、適応価の高い表現型の遺伝子頻度は高まるので、結果的にgene-poolに定着するのは5:5もしくは適応価の高い表現型の割合がもっと高くなるだろうと一般には言われています。

この辺りからガチムチガチガチの中立進化論者である斉藤成也節が炸裂するわけです。

表現型に占める中立的な形質と有利な形質をきちんと単位として扱い、計量化して評価した論文はあるのだろうか?と。実際の研究に目を移すと、分子生物学では形質は機能しているものが中心で、機能しているかどうか曖昧なものがあるかどうかはあまり考慮されません。当然中立なものかどうかなんて考慮されません。結果目につきやすいマクロ的な形質のうち、どれくらいが中立かどうかみたいな話になるわけです。

しかし、マクロ研究者といえども論文発表の段階では、(A)この形質は対立形質と比較して有意差がなかった、とは言えても中立かどうかは言えません。しかも論文の体を成すために(A)だけでなく、(B)あの形質の形質はその対立形質と比較して優位な差があったみたいな記述を追加しないと(A)の部分は発表されません*2。現実の論文の多くは(B)だけのことも多く、(A)が発表されるのはレアです。大抵の論文は、形質が繁殖レベルではなく生活レベルで機能的か否かだけが問題になることの方が多いようですが。

というわけで発表というバイアスのために、そもそも有意差のでない対立形質がどの程度あるのかを知る手だては限定されています。その上種に固有な特徴というものは、やっぱり今はともかくかつては適応的な形質だったのではないか?と思いたくなるものがほとんどですし、誰も好きこのんで中立ぽい形質を捜そうとはしないので、正の自然選択によって作り上げられたものが多いのだろうということになってしまう。

さらに、id:shorebirdさんも書かれていますが、適応度が厳密に中立でなくマイナスであっても,その適応度の大きさと集団の大きさによって浮動による定着確率が生じるし,プラスの場合も,その適応度の大きさと集団の大きさによって,正の自然淘汰による定着速度に分散を生じさせる(定着せずに消え去る確率も生じる)というのは明らか.

斉藤さんはこの辺りの事情から、実は正の自然選択によって選択された表現型形質は1割位なのではないのか?自然選択の内訳は正の自然選択ではなくは中立進化が主要な働きではないのか?と問うているわけです*3。彼にしてみれば、中立進化こそゲノム・表現型双方においてメジャーな進化であり、正の自然選択はその一部ぐらいであるという位置づけにしたいのかもしれません。

ここに付け加えるとしたら、(1)生物はミクロだろうがマクロだろうが、中立的に進化した形質だろうが、事後的に機能的なように利用する性質がある(前適応)。(2)創始者効果・瓶首効果による影響は無視しがたい。という辺りでしょうか。

なのである形質が本当に正の自然選択によって進化したのか?ということを判断することは極めて難しい。ここら辺を総合的に判断すると、理論研究もしくは個別形質として自然選択を議論すること自体は科学的であるが、ただ形質の機能だけを問題にした研究において、自然選択云々は勇み足と考えています。社会生物学派生の研究は、id:shorebirdさんには不本意かもしれませんが、特に進化心理学系に多い気がします。「進化的基盤を持ち、種に固有」で止めておけばいいのに自然選択に言及する積極的な必要性があるのか理解できません。


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話は飛びますが、最近の私の興味は、遺伝的プログラム・遺伝的可塑性・文化(伝統)といった形質の単位化を困難にするような問題をクリアした集団遺伝学の議論なのですが、知人は「そう言った形質は自然選択によって成立するとこまではいけると思う。成立した後は集団遺伝学的にどういった動態が考えられるかという議論は出てないんじゃない」というばかりで、誰かやらんかなと待ち焦れるばかりです。

*1:「このゲノムレベルで中立な突然変異が進化に大きく影響するのではないのか」というのが大野乾さんの仮説ですね。ま、ここでは余談レベルですが。

*2:もちろん学会の口頭やポスター発表だと、有意差が出ませんでしただけもある

*3:これも本人から直接聞きました。1割云々は当然議論の余地があるとも言ってましたが