雑感 内井惣七『ダーウィンの思想』

第四章末尾に気になることがあったの一文引用。

わが国では、かつて、「種の棲み分け」という、競争原理とは無縁に見える現象を取り上げ(そして、棲み分けの原因を探ろうとはせずに)ダーウィン説を否定することがもてはやされたことが、「棲み分け」はダーウィン説できちんと、しかも実証的に説明できるのだ。ダーウィンのアイデアはそれほど含蓄に富むものだったということを再認識すべきだろう。ちなみに、「棲み分け」を提唱した人物は、ダーウィンの「分岐の原理」に気づいてさえいなかった。


そのネタは今西錦司が30年前に通過した場所だ‼‼

つーかですなこのネタするなら最低限

の議論を踏まえているのかがポイントになると思うんだけれど、正直内井さんは読んでいないと思われる。
今西が〔分岐の原理〕について書いていたという記憶はないけど、今西はニッチの言い出しっぺとしてダーウィンを認識しているのだ。

今西は柴谷の批判(1981)を受けて、対談本(1984)ではほぼ完全に自然淘汰でも棲み分けが可能であるということを認めているし*1、猛烈に評判が悪い「私の進化論」*2でもしれっとに自然選択を認めていたりするので、ダーウィン説を否定したというのは結構ひどい間違い。*3

ちなみになぜ棲み分けるのか、という議論については「主体性の進化論」(1981)にあるウェブナーの「地理的隔離」と自説の比較の中ではじめてちゃんと書いたので、今西の理論は主体性の進化論まで完成しなかったと言えるだろう。

今西(1981)は、同所的ニッチ分化による種分化も異所的種分化も同じ原理=社会的な隔離(地理・時間による原因もコミで)、形態・行動的な進化に先立って種認知(同種異性個体の認知)の違いによる繁殖の隔離=性的な社会の断絶によって可能になっていると議論している。この議論をダーウィンの著作から読み解けば性淘汰になるのは自明的な話で、別に大しておかしな話ではない*4

ではなぜ今西がダーウィンを否定しているかのように読んでしまう人が後を立たないのかといえば、正の自然淘汰による適応それ自体はありうることではあるが確率は低いし、実際には本当に自然淘汰の結果なのか分かるわけないと書いているから。今西の立場はあるかどうかわからない競争原理の議論に立脚した歴史の議論をするのなら、(正の自然淘汰の結果かどうかを問うことなく)生態系の多様性の構造化のありかたの歴史を議論すべきだという考えだった。

補足

あと学部生向けの進化論の教科書にすら目を通してないっぽい。ボトルネックとか遺伝子の6割が中立進化の賜みたいな議論もおさえていない。集団遺伝学全然わかっていないんじゃね?というわけで、内井流の解説箇所は進化論系の雑誌に投稿するとリジェクト喰らいます。

今西晩年の著作の中に、ダーウィンと自説の違いがあんまりないとぼやいている箇所があると聞いているんだけど読んだことないなぁ。

タイムスパンを区切って計測してやれば、対象とする形質に自然淘汰が作用しているかどうかは検証可能。ある種の一般的な形質が機能しているとして、本当に自然淘汰の結果なのか、外or前適応なのか私には分の悪い賭けにしか思えない。生活史のなかでどう機能しているか、だけでいいのではないか?その由来はDNAの化学的な性質に過ぎないのだから。

*1:柴谷が「棲み分けって競争排除でいケルンちゃうかと思ったけど、蜻蛉はダメですな」とふって、今西が「せやろ。蜻蛉はかってにわかれたとみなさんとだめや」と答える場面が。他の属群なら競争排除でもいいらしい。素直に語れよ。

*2:私も嫌いだが、ひどい箇所は自然とモザイクがかかるので、読めるようになった。適当に引用する分には重宝する本w

*3:逆に『生物の世界』『生物社会の論理』あたりだけを根拠に、今西がダーウィン=ニッチの開祖否定したという説を立てるとなると、当時の生態学のレビューが必要になる。どっちにしろ一文だけでする議論ではない

*4:この手の研究はここ数年花盛り。もう萎んでいるのかもしれんけど。河田雅圭なんかもしている