憲法って

id:dice-x:200412111経由憲法論のホログラム
さてそれにしてもけったいな社説である。ネット右翼的には売国奴的発言と憤るところであろう。辻さんは飛ばしたが最後の方はなかなかすごい文面だ。先週のブログを探す体力はないのでほっておくがお祭り騒ぎだったに違いない。
まぁ、他人の意見を類推しても意味がないので社説の感想を述べるとする。
まずその意味では、政権の行動を制約するブレーキである憲法の改定をから検討したいと思う。
そうなのか?と非常に素朴に考えるのは間違っているのだろうか。むしろこの考え方こそが、権力の肥大化を阻止するという目的にそぐわないのではないだろうか?ここで懸念んされているものは、少しの譲歩が徹底的な譲歩を誘発されるかもしれないということだ考えられるわけだが、はたしてこのような思考はよいのだろうか。線引きが異常なところに引かれているのではないだろうか。私にはただただ猜疑心が語られているように思えてならない。
制定後60年が近づく今、憲法に全く何の問題もないと言われたとしても全く説得力がない。もちろんこれは只の観念的な問題であって、冒頭の憲法学者の言うとおり憲法ってものは不具合があって丁度良いというものかもしれないが、議論としてはどこに問題があるのか、それは解釈によって解決されるような問題なのか、それともやはり改正した法が適切なのか、といった議論を行うことは非常に有意義なはずである。それを全く何の余裕もなく猜疑心を提示する社説というのは一体どうなのだろうか。
憲法を守ることを期待されるのは公務員、権力者であり国民ではありません。日本国憲法第九九条もすべての公務員に憲法を尊重し擁護する義務を課しています。という議論は初めて聞いた。未だかつてこのような憲法解釈があっただろうかという位びっくりした解釈である。好意的に拡大解釈しないとどうあっても受け入れがたい。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。。少なくともこの一文だけで国家だけでなく国民も憲法に則って行くべきであることが宣言されていると理解されるのが妥当である。
以上のことより、中日新聞政権党自ら言いだすだけでも「要注意」です。などと言っているヒマがあるのなら、せめて議論に応じる余裕を見せるべきだ。そもそも議論から逃げるという姿勢こそ、少しの改正が認められることは全てが改正されるべきであるという小児的な論理に対する敗北そのものではないだろうか。
そもそも現行憲法では改正には多大な制約が科せられているわけであり、民主主義の聞きを煽ったところで、民主主義によらない民主主義の保護を訴えるというのも、それこそアメリカがやった平和のために不幸の連鎖を作り出したのと全く同じであり、全く感心しない。

眠いのでここまで