共感覚

共在感覚と言ったら木村大治の本になるが、この場合視覚と聴覚、色覚と味覚などの異なる感覚がまざってあらわれることである。モジュール説の隆盛によってかなり注目されている現象のようだ。
さて、松谷氏はrecent events@TRiCK FiSH共感覚のあり方は文化の違いじゃないの?という疑問を呈しているが、ただただ遺伝子という言葉に噛みつきたいだけじゃないかと言いたくなる。元ネタの五感の重奏『共感覚』を読む限りでは、心配するような優生学的な発想は見受けられないし。遺伝子という言葉の台頭に対して倫理的側面が考えられていないという言説で文句を言うのならば、科学教育をきちんとする方向の行動を取っている人間でないと説得力がない。
そもそも感覚というものは五感できれいに割り切れる物ではなく、同時に利用してものを把握するようになっている。取り上げられた共感覚とはそういった通常行われている身体的有り様ではなく、脳の構造と共感覚および意識にある共感覚知覚(synesthetic perception)、もしくは共感覚(または共伴感覚, synesthesia)のことであり、あくまで幼児期において通常とは異なる発生を経た脳が持つ特性と考えたらよい。それが遺伝するということがリチャード・サイトゥイックの発表の骨子であるのだが。
また松谷氏の文化の影響というのはあまり言葉として適切ではなく、どちらかというと環境といった方がよいのではないだろうか。共感覚と通様相(crossmodal)知覚の差を意識せずに書いているせいで議論がおかしくなっているが、感覚は文化に先立ち、文化もまた環境あってのものなのだから。