追記

はてなに移ったようなのでTBを打ってみる。
なお事情のよくわからない人に説明をすると、平野氏の釈明文は本来15日付に公式サイトで発表され、本日付で移転した。はてなは過去記事を書くことができるので、9月15日付の記事はコピーされたものである。したがって前述のTBうてよ、というのはなにも矛盾しない

平野氏の見識

 ぬらぬらの表紙ver「鏡の影」をなくしてからほぼ一年が経ち、ブッキング版を買い直してからも久しいのだがやっとこさ平野啓一郎氏が盗作疑惑に対する回答を出したということを、当事者の佐藤亜紀氏の今日付の日記で知り、ほいほいと見に行ったのでした。
 平野氏の下の名前が耕太だと思いこんでいたせいで、探すのに時間がかかりましたが、以下の引用が肝心の類似疑惑に対する彼の見解です。

一読して、利用者は『日蝕』が、佐藤亜紀氏の『鏡の影』という小説の「盗作」であるかのような印象を受けるだろう。言うまでもなく、これは事実無根である。私はここにはっきりと言っておくが、私はこれまで佐藤亜紀氏の小説を1行も読んだことがないし、また今後も読むつもりがない。佐藤亜紀氏本人についても、何の関心もない。従って、「盗作」云々は、あり得ない話である。

 作家の言葉としてはあんまりだろう。これは不勉強ですまされるモノではない。
 せめて黒の過程や薔薇の名前などの異端探求モノ作品との関係から位置づけるなりすれば、6年越しの弁明も芸があるというモノだ。読んだことがないから盗作ではないという、誰に対する証明も行っていないではないか。このような記事をウェブ上にあげるのならば、鏡の影を読んでから類似していないと主張すべきであった。読まないと言うことを宣言した時点で、平野氏は自分の弁明の余地をなくしてしまった。それとも読んだという言質が、盗作の証拠になったりすると思うような考えなのだろうか。

 一般に『日蝕』は、『薔薇の名前』に似ていると言われるが、エーコが一種の知的着地点を設定して小説を書いているのに対し、『日蝕』はむしろ、それなしに、ハイエロファニー(聖性顕現)をそのまま描いた作品であり、作者が好きだと言っているエリアーデの小説に近いのではないかという中沢新一の批評をあげることで、作家自身による作品論を代弁させたつもりなのだろうか。それならば人間の悪魔性を表現した鏡の影とどう違うのか不明である。ところで私は日蝕において表現されたのは仏教で言うところの魔界ではないかと思うのだが、中沢的チベット仏教だと聖性なのだろうか。
 それはさておき、なぜ「web2.0的世界において、「名誉」を守るということ」なんだろう。wikipediaは誰でも編集可能である。自分で編集して署名しておけばいいことである。大体日蝕騒動は佐藤亜紀 - Wikipediaにも書いてあり、重複している以上削った後にその棟を書いて誘導すれば誰も文句は言うまい。
 大体佐藤氏がブログをやっており、TBを受け付けているのにこそこそしすぎである。それとも自分のコメントはロングテールの端っこだと自虐しているのだろうか。